映画「あなたの旅立ち、綴ります」

映画「あなたの旅立ち、綴ります」

理事の星野哲です。前回に続いてですが、映画の話題です。
2月24日公開の「あなたの旅立ち、綴ります」(原題:The Last Word)という、シャーリー・マクレーン主演の映画。終活について考えるうえで、大切な視点を提供している映画です。
終活にかかわる取材をしていると、しょっちゅう耳にする言葉があります。「迷惑をかけたくない。だから終活する」です。
私はこの言葉を聞くたびに違和感を抱いてしまう。歳を取れば自分でできることは減っていく。死ねば当然、何もできなくなる。だから、濃淡はあっても周囲に「迷惑」かけるのは当たり前です。「むしろ、どうやって迷惑かけあえる関係性を紡ぐか。それこそが終活では」と考えているからです。
いま語られている終活とは、市場からサービスを購入することで、自身の周りの人々の関与を極力減らす方向に動くことを指していることが多い。それが、どんどん自身の領域を狭め、高い壁を造って、近しい人たちを排除していく行為のように思えてしまう。
確かに、自身が介護に苦労した経験などから、自分の子どもにはそうした苦労をかけたくないといった親心は理解できる。延命治療による治療の長期化は、経済的にも負担だし、葬儀でいろいろな人に対応するのは大変です。そんなことを近しい人たちにはさせたくない。そういう思いは美しい。「自分の生き方は自分で決めてきた。だから最期も自分らしく」という自己決定による満足感も大切でしょう。
でも、周囲の親しい人たち、例えば子どもと本当にそうしたことを話しあい、相手の思いを聞いたことがあるでしょうか。「葬儀は身内だけで」と一人で決めて、それがかえってお別れの場面を奪い、周囲の人たちの心を踏みにじる結果になりはしないでしょうか。自身のエンディングへの関与を拒むことで、親孝行や罪滅ぼし、時には和解の機会を奪ってはいないと言い切れるでしょうか。
人は一人で生きているわけでは絶対にありません。それは物理的な意味だけでなく、たとえば子どもに対しては親としての自分があり、友人には友人という存在としての自分というものがある。関係性の中で「自分」は多面的な顔をもつ。自分という存在は必ずだれかとの関係の中にしかない。だから死は個人のものではなく、周囲の人たちすべてと必ず「なにか」を共有するもののはずです。近しい人の死は、自身の一部、その人との関係の中に存在していた「自分」の死でもある。もしも共有されるものがない死があるとしたら、それこそが真の孤独死でしょう。
私はむしろ、親しい人たちを巻き込む、自身の領域を「開く」ことが終活には大切ではないかと考えています。終活とは、関係性を再構築することだと。「あなたの旅立ち、綴ります」はそんな私の思いにぴったりくる映画でした。
主人公の高齢女性は裕福だが、離婚して娘とは長い間交流もなく、孤独感を抱いている。女性は、生前に自身の訃報記事を書いてほしいと、地元の新聞で訃報を担当する記者(アマンダ・セイフライド)に執筆を依頼。しかし、自己中心的で周囲から嫌われ者の女性をよくいう人物はおらず、訃報は散々な内容となる。そこで、女性は自分を変えようと決意し、記者とともに行動を起こす――。
よい訃報には4つの条件があると、女性は訃報を分析します。(1)家族との関係が良好(2)同僚や友人からの評判がよい(3)他者の人生を変えるような行動がある(4)見出しになるような「ワイルドカード」があること。
そう。この4つを求めて女性は行動する。過去と向き合い、関係性を再定義し始める。新たに、周囲の人たちを巻き込み始めるのです。最初は自身の訃報のためという打算から始まった行動が、彼女自身を変え、周囲の人たちが彼女をみる目を変え、時に他者の生き方さえ変えていく。詳細はネタバレにもなるので避けますが、最後は孤独とは無縁の「訃報」ができあがるとだけ申し上げておきます。人は他者と、時にはお節介と感じられるようにかかわりあうことでしか理解しあえない。迷惑かけあう関係こそが自分を輝かせる。
抽象的で、きれいごとと感じる方もいらっしゃるでしょう。ご意見いただけると嬉しいです。

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